なぜ引き寄せの法則は成功しないのか

私は自分が経営する会社が倒産寸前になったときに、引き寄せの法則を使って会社の借金をすべて返済し無借金経営になろうと決意しました。

引き寄せの法則に関する本を数多く熟読しエスターの講演会DVDも何枚も買って繰り返し見ました。特にDVD『ザ・シークレット』は車の中で運転中に必ず流していたので、何百回見たかわからないくらい見ました。

それを始めてから、2年くらいの間に、会社の、銀行からの借入金2億円をすべて完済できました。おまけに、個人的なおこずかい金200万円がいつの間にか1億円を超えていました。株のおかげであり、その経緯はブログ『株についてのひとりごと』に、買った銘柄の掲示板のリアルの投稿を載せています。

つまり、引き寄せの法則が最も成功した例でもあると思います。

そのような実績がある私だからこそ、はっきりとわかるのですが、ほとんどの人は引き寄せの法則の本やDVDを読んでも見ても失敗に行き着くと思います。

 

つまり、ほとんどの人にとって、引き寄せの法則は成功しない、どころか逆効果の場合も非常に多いということです。

 

このことについて、少しずつ書き足していきたいと思います。

 

まず、引き寄せの法則とは何でしょうか。

思ったことが実現するということです。

思考・想念は、現象化するということです。

何故でしょうか。

それは宇宙の根本法則だからです。

唯一の意識だけがあるのであり、この多様性、この現象のすべてが現れたのは、唯一の意識が夢を見るように想像したからです。

それ以外に創造はないのです。

ゆえに、古代インドでは、この世、この宇宙は、神の見る夢としました。

唯一の意識に分離はなく、ただ、『私の意識』『あなたの意識』と分離しているように思いこんでいるだけです。(ここは非常に難しく、これがわかれば究極の悟りですが、いまはさらっと流してください)

『私の意識』(ほんとうはそのように『私の意識』『あなたの意識』と分離したものはないのですが)は唯一意識である以上、思ったこと、想像したことは現象として現れます。

 

さて、この根本法則は、イエス・キリストが詳しく説いています。

ゴータマ・シッダッタ(仏陀)も説いています。

 

一 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり行なったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。


二 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につきしたがう。――影がそのからだから離れないように。

 

 

さて、思うことが実現するのであれば、何故、私たちの願いは実現しないのでしょうか。

引き寄せの法則をやってみたところで、成功する人はほんの一握りの人です。

ほとんどの人が成功しないばかりか、逆に望むことの反対になる人も多いでしょう。

(ほんとうのことをいえば、すべての人はすでに自分の思い通りに創造しているとも言えます。とりとめのない想念を出している人はとりとめのない人生を創造していますし、何でも他人のせいにする人は、自分の力より他人の力が圧倒的に強く他人の力に支配されているという思いを持っているから他人のせいにするのであり自分の力を信じてなくその思いが他人に左右される人生を創造していると言えます)

 

引き寄せの法則が成功しないのは、私たちが、自分自身が創造の主体であると自覚してないからです。

無限の大海である、唯一意識であると認識してないからです。

 

引き寄せの法則に関する本を読んだ人は、まず『強く思えばいいんだ』と思います。

現在はお金がほとんどない、借金を返すあてもない、自分の収入は限られている、というような状況にあって、何とか引き寄せの法則で富を引き寄せようとします。

その結果は惨憺たるもので、ますます、窮乏へと向かって行きます。

何故でしょうか。

それは、自らを『欠乏している人間』という思いを持ったまま、強く願望を思おうとしているからです。

巨万の富を引き寄せたいと強く願えば願うほど、現実の『そうでない自分』『窮乏している自分』をより強く意識してしまうのです。

その思いは無限感から発したものでなく、欠乏感、困窮感から発したものです。

ですから、現象にはより強く欠乏が現れるようになります。

 

法華経の『信解品』に長者窮子の喩えがあります。

法華経には法華七譬といって、七つの代表的な喩えがあり、その他にもいろいろな比喩が出てきます。

しかし、この長者窮子の喩えは、私は最も人間存在を的確に表したものだと思っています。この長者窮子の喩えを深く瞑想すれば、益するものは非常に多いと思います。

 

幼い時に父を捨てて家出して他国を放浪して50歳になった一人息子の話です。

その父は財宝無量の長者です。

息子は他国を放浪していて困窮を極めています。

食べ物や衣服を求めていろいろな地方を経巡ります。

ある国で、その人は、雇い人や財宝が溢れている、宮殿のような大邸宅を見ます。

そして『これは国王の城だろうか。ここは私が物を乞うようなところではない。こんなところでぐずぐずしていたら、怪しい奴と思われて痛めつけられるだろう。』と思って、一目散に逃げ出します。

この邸宅の主こそが、この息子の父です。息子は長年の放浪生活、困窮生活が染みついて、郷里を忘れ父を忘れてしまったのです。自分を貧窮の身であると固く思い込んでいたのです。

父である長者は、逃げ去った男を窓から見て、それが自分の一人息子だということに気が付きます。そして、使用人に命じて、息子を追わせます。

捕まえられた息子は、あの国王と等しい長者の使用人が自分を捕まえに来たことから、『私は何の罪もないのに捕まえられた。きっと殺されるのだろう。』と思い、気を失って倒れてしまいます。そして気がついてすぐ逃げてしまいます。

乞食根性が深く身についた息子を思って、長者は思案します。

『あの子は志意下劣だ。豪貴な私の子と言っても信じないだろう。』

そして、使用人を遣わしてこう言わせます。

『糞尿の処理をする仕事を与えてやる。他のところの倍の給金をやるから。』

方便でそう言って、息子を自分の近くに住まわせます。

そして優しく『よくやっているな。お前を私の子のように扱おう。』

そして20年経ったとき、長者は皆を集めて『これは実は私の本当の子なのだ。』と言います。

息子は無量の財が自分のものとなりました。

実は、最初から息子は無量の長者であったのです。

しかし、無量の長者であると気づくまでに時間がかかってしまったのです。

 

さて、この例え話には、私たち人間存在の今の状況が示されています。

私たちは、無限の大海、無量の精神そのものです。

しかし、肉体を持ち、感覚を持ち、五官の記憶を溜め込んでいるうちに、限定感、欠乏感、無力感に覆われ、無限感を失っていきます。

つまり、無量の長者そのものなのに、今日食べるものにも困る乞食だと思い込んでいるのです。

 

引き寄せの法則を学んだ人は、『自分は長者なんだ』と強く思い込もうとします。

しかし、日々現実と向き合わなくてはいけないのですから、実際は長者でないことを思い知らされます。

いくら億万長者だと唱えてみても、会社に行けば嫌な上司に怒鳴られ、クレーマーのような顧客に絡まれ、自分が無量の長者だと思おうとすればするほど逆のことを意識に刻み込むことになります。現実はおよそ無量の長者とは程遠いからです。

 

これが、引き寄せの法則が誰も成功しない理由です。    

 

私たちは、生まれてから今まで経験した記憶の束を抱えて生きています。その記憶の束を『私』と呼んでいます。

この『私』のために、私たちは無量を見失っています。

『無量』の中に『私という中心』が生じること、これこそが『矢』です。

『苦』です。

『激痛』です。

 

この『私』=『自我』=『記憶の束』を洞察していかなくては、『無限感』は生じない。

限定を抱えていては、無限は見えないのです。

 

歴史上の仏陀=ゴータマ・シッダッタは、『自我の成り立ち』の洞察、記憶の束をdeleteしていくことを説いたのですが、残念ながら、仏陀の教えは捻じ曲がっていきました。その真意は伝わっていません。部派仏教に分かれてますます真意は失われていきました。大乗仏教は、その失われた仏陀の真意の復興運動として起こったのですが、しかし、大乗仏典の真意もまた見失われていきました。

 

自分が困窮した乞食だと自己認識していれば、いつまでも困窮の状態が続きます。

記憶の束が、困窮した乞食というものであるのに、無理矢理『自分は無量の長者だ』と思い込もうとしても、心の底が、その倍の力で否定し跳ね返してしまうでしょう。

困窮の観念をより深く刻み込んでしまうだけです。

 

まずは、その自己限定がいかに起こったかを洞察していくこと、そしてクリアにしていくこと、これが第一歩でありゴールです。

                    (続く) 

 

 

 

 

十牛図の奥の解釈

ブログ【仏教についてのひとりごと】に書きました十牛図の解釈のその奥をここに書いておきます。

 

【十牛図】

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  1. 尋牛
  2. 見跡
  3. 見牛
  4. 得牛
  5. 牧牛
  6. 騎牛帰家
  7. 忘牛存人
  8. 人牛倶忘
  9. 返本還源
  10. 入鄽垂手

 

十牛図は、牛飼いの童子が逃げた牛を捕まえにいく物語です。

牛飼いの童子とは求道者を指します。

牛とは、禅で言う本来の面目、諸仏の真源、森羅万象の本源、臨済の言う一無位の真人のことです。

 

第一尋牛から第七忘牛存人までは、童子が描かれています。

しかし、第八人牛倶忘・第九返本還源・第十入鄽垂手には童子は描かれていません。

私は、童子つまり求道者の修行段階を示したのは第七までで、

第八人牛倶忘・第九返本還源・第十入鄽垂手は、その三枚で真理そのものを表したものと考えています。

 

第八人牛倶忘 は 真空   です。

第九返本還源 は、真空妙有 です。

第十入鄽垂手 は、真空妙用 です。

 

第八人牛倶忘 は 本来の面目の  です。

第九返本還源 は、本来の面目の  です。

第十入鄽垂手 は、本来の面目の  です。

 

本来の面目の  は  です。

本来の面目の 相   は    です。

本来の面目の 用   は    です。

 

 

もっとも、臨済録の四料揀に当てはめて

第七忘牛存人 を 奪境不奪人

第八人牛倶忘 を 人境倶奪

第九返本還源 を 奪人不奪境

第十入鄽垂手 を 人境倶不奪

とすることも可能でしょう。

 

しかし、私は、どうしても、第七と第八の間には隔絶したものがあると考えます。

百尺竿頭一歩を進む

大死一番、絶後蘇生

と言われてきたものです。

 

牛飼いの童子は、ここに至って大死一番し、

本来の面目が絶後に蘇生した。

 

第一から第七までは、牛飼いの童子であり

第八からは、無限の大海です。

 

第八人牛倶忘・第九返本還源・第十入鄽垂手は、無限の大海の 体・相・用 です。

 

体は、無限の大海そのもの。形なきもの。

相は、大海に浮かぶ無数の波。多様性。現象。

用は、無限の大海の慈悲の働き。

 

 

 

 

 

 

 

映画『ショーシャンクの空に』に秘められた奥の意味 2

もっと掘り下げた見方をすると

ショーシャンク刑務所はこの世を象徴しています

堅固な塀に囲まれています。

ボグズのように、暴力で自分の欲望を満たそうとする者もいます。

ノートン所長のように、権力で人を支配しようとする者もいます。

ブルックスのように、人のいい善人もいます。

そこは、がんじがらめに束縛された世界です。

作品の初期のショーシャンク刑務所はどんよりと暗く、暴力と権力に支配された、希望のない世界に描かれています。アンディはボグズ一派に毎日こっぴどくやられ続けます。

転機となったのは、刑務官のハドリーが仲間と立ち話しているときでした。亡くなった弟の財産を相続する話で、相続税でほとんど取られるという愚痴でした。アンディはここで勇気をもって話しかけ、屋上から落とされそうになりますが、ハドリーはアンディのアドバイスを聞きます。

これが転機となり、天国のような屋上でのビールの場面となり、そしてボグズがアンディの世界からいなくなり、アンディの世界から暴力はなくなりました。

そして、図書館係となり、アンディの毎週の手紙に根負けした州議会からの寄贈、モーツァルト『フィガロの結婚』、そして更なる寄贈を受けて図書館の一新。

ここで象徴的な映像が出てきます。

真っ暗な画面の真ん中に大きく穴が空き、光が入ってきます。

アンディのhopeの力により、全くの暗闇であった環境に、光が差し始めます。その象徴です。

映画の最後では、バクストンの大きな樫の木、そしてジワタネホの輝く大海、と光に溢れた世界が開けていきます。

 

ショーシャンク刑務所は、この世を象徴しています。

それは、法華経譬喩品の三界火宅の喩えのように、悪獣や毒虫がうようよいるところです。鬼も夜叉もいます。火災が発生しています。

まさしく、この世のありようです。

白隠は、若い時に『こんなたとえ話ばかりの経典などくだらない』と捨てた法華経を悟った後に何気に読んだところ、この譬喩品に至って号泣したと言います。

なぜ、白隠は譬喩品で号泣したのでしょうか。それは白隠が悟って意識が拡大し俯瞰して観た時に、この世のありさまは、譬喩品に書かれてある通りであり衆生が苦の中にあるのに苦にあることさえ知らないことがはっきりとわかったからです。

そのようなありさまのこの世、環境、現象を、アンディはhopeの力で一変させていきます。

そして更に自由な境地へと飛び立ちます。

アンディがいなくなって、レッドがつぶやいた言葉がこれです。

 

I have to remind myself that some birds aren't meant to be caged.

Their feathers are just too bright ,

and when they fly away,

the part of you that knows it was a sin to lock them up does rejoice ,but still,

the place you live in is that much more drab and empty that they're gone.

 

かごに閉じ込めておけない鳥もいるということを自分に言い聞かせる。

かれらの羽はまぶしすぎるのだ。

そしてかれらが飛び去ると、心の中の、閉じ込めるのが罪だと分かっている部分は喜ぶのだが、

それでも、かれらが去った生活の場ははるかに色彩を失い、空虚になってしまう。

 

 

ショーシャンク刑務所は、この世の象徴です。

そして、アンディはマスター、教師でした。

アンディは刑務所内の人たちに多くの影響を与えていきます。

アンディは、刑務所の中にいてもいなくても、無限の大海にいました。

彼には静かな雰囲気があった。歩き方も話し方も、この辺の普通のやつとは違ったのだ。この世の苦労も心配事もない男が公園にいるかのように散歩していた。まるで、この場所から自分を隔てる、見えないコートをまとっているように。』というのは、アンディはいつも無限の大海にいて、刑務所の中にいても環境に支配されることがなかったからです。

ですから、最初の夜、泣き出す新入りを当てる賭けで、レッドはアンディに賭けましたが、アンディは動じずに静かでした。

 

そして、環境も、光り輝く大海へと変わります。

ショーシャンク刑務所での最初の夜の描写は、暗闇、暴力、泣き叫び、絶望です。

映画の最後の場面は、光り輝く大海です。

この対照的な場面にこの作品の奥の意味を汲み取ってください。 

 

 

 

『ベトナムの赤ん坊は自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った』という言葉の真意

【アインシュタインロマンから】

アインシュタインは、死ぬ直前に

『私は神のパズルをすべて解き明かした。

アインシュタインはアインシュタインでいたいのだ。』

というメモを残していました。

この言葉の謎を解くために、女性研究家のバレリー・デュポンは、アインシュタインが晩年中国におしのびで旅行していたことを突き止め、中国の奥地にまでメモの謎を解くカギを探しに行きます。 


それは途方もない作業でした。彼女はそれでも諦めませんでした。西へ向ったという、彼の足跡を、探して探して探し歩いて、気がつけば2年という歳月が流れていました。中国に渡った直後、「私のすることは砂漠の中にある一粒のダイヤモンドを見つけに行くようなものだ。」と言っていた彼女も、その頃には「砂漠に水をまくようなものだ。」と変わっていました。

 

 そんな中、天山山脈の中腹に足を運んだ時、彼女はついに探していた人に出会ったのです。

 その老人は羊飼いでした。のんびりと羊を眺めながら、見晴らしの良い斜面に座り込んでいました。彼女が近づき、その老人にアインシュタインの写真を見せると、老人は幼い頃、確かにその人に会った事があると答えました。

「その時彼とどんな話しをしたの?」という彼女の問いかけに、老人はおぼろげな記憶をゆっくりと辿っていきました。

 「そう、確か石の話しをした。」「石は何故下に落ちるのかと聞かれたような気がする。」

 「重力の話しをしているに違いない。」そう思った彼女は続けて問いかけました。

 「何て答えたの?」と。

 すると老人はそばで遊んでいた子供を指さし、言いました。

「ワシの孫に聞いてくれ。」と。

「あなたに聞きたいのです。」と言うと、「誰に聞いても答えは同じだよ。」と言いながら、老人は去っていきました。

 

そこでその少年に、石を落としてから、こう聞きました。

『なぜ、石は落ちるんだろう?』

『石が落ちたがってるからだよ。』

『じゃあ、そこにある、今落としたばかりの石はどういう石なの?』

『その石はいまそこにいたがっているのさ。』

そして少年は、小石を拾い上げて力いっぱい放り上げました。

『こうすると、あの石は上に行きたがっている石になるんだよ。』

『でも、すぐに落ちてくるでしょう?』

『それは、その石の、上に行こうとする思いが弱いからだよ。もっと、強い思いをあげられるといいんだけど。』

『この地面が石を引っ張っていると考えたことはある?』

『あるさ。もちろん。地面がいろんなものを引っ張りたがっているのは知ってるよ。』

『まるで石は生き物みたいね。』

『生き物だとかそうでないとか、そんな区別はあまりしたことがないな。

 羊は羊でいたがっているだけ。石は石でいたがっているだけ。山は山でいたがっているだけなんだ。もともとはそんなに差はないと思うよ。』

『人も?』

『同じさ』

 

 

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羊は羊でいたがっているだけ。

石は石でいたがっているだけ。

山は山でいたがっているだけ。

人は人でいたがっているだけなんだ。

もともとはそんなに差はないと思うよ。

 

 

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すべて、思いが形を作っている。

とすると、この肉体も、それに先立つ『思い』が作ったことになる。

人でいたがっている思い。

人であろうとする力。

 

 

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無限の大海というものを想定してみましょう。

唯一の大海、それは無辺際なもの。

風も全くないため、波も立たない。

よって、形がない。

風が吹き、波が立って初めて形が現れる。

 

 

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渇愛(タンハー)の中で最も大きなものは欠乏感。

個であろう、個でいたい、という思い、渇愛にはほとんどの場合欠乏感がある。

個でいたいという思いが肉体を作り、そして、肉体を持ったために更に欠乏感が生じ強まる。

思いが肉体と環境を作り上げる。

唯心所現 唯識所変

一瞬一瞬の思いが刻々と環境を作り上げている。

 

 

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無限の大海とは比喩で、本来の私たちである無量心のこと。

無限の大海に風が吹いて波が立つ。

風は思い。

波は現象。

現象とは、形成されたもの全部。身体も環境もすべて。

 

 

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人は、本来無限なものなのに、

肉体を持ったために、無量からの分離感、限定感、欠乏感を持つようになりました。

赤ちゃんが泣いて出てくるのは、胎内での一体感しかなかった状態から

初めて分離感の痛みを感じたからです。

その後、五官の経験を積み重ね、記憶の束も増え続けます。

個が確立していき、分離感、限定感、欠乏感はますます増大していきます。

分離感が大きくなれば、孤立感へと変貌します。

人間は苦の集積に向かっているのです。

 

 

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無量感からの思いは、春風のように暖かく優しい風です。

春風が吹けば、無限の大海に優しく美しい無数の波が現れます。

しかし、欠乏感からの思いは、台風のように怒り猛っています。

不調和な荒波が立ちます。

 

 

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私たちは、想いによって一瞬一瞬、環境を作り上げていっています。

『そんなことはない。もうずっと環境は最悪のままで何の変化もない。』というかも知れませんが、それは目の前の環境に反応した固定化した想いを出しているからであり、想いのすべてで最悪の環境を固定化しているだけです。環境と離れた想いを出すことができないためです。

本来の無量から離れた想い、つまり分離感、限定感、欠乏感から出された想いは、不調和な環境を作り出していきます。

しかし、すべての人間は肉体を持ち感覚を持っているために、いつも無量であることが極めて難しく、また周囲の人たちのおしゃべりを聞いたり、テレビからとめどなく流されてくるおしゃべりを聞いたりすることによって、どんどん『無量』から離れた考えを当然のようにしていくようになります。

また、昔誰かに言われた嫌な言葉の経験を思い出し、自己重要感の毀損、つまり欠乏感を強く意識し精神にまた刻み込むことも多いでしょう。

人間はそのようにして常時、欠乏感の増大へと向かっています。

これは、善人悪人関係ないのです。いい人であろうとする善人はたえず他人の目を気にし自分の気分を犠牲にしても他人の喜ぶように行動しようとします。たえず自己重要感を毀損し欠乏感を増大させているのです

悪人は悪人で、自分の毀損された自己重要感を取り戻そうと、言動の暴力などによって他者を従わせて優越感をもって自己重要感の毀損を埋めようとします。

善人悪人関係なく、欠乏感の増大に向かっています。

ですから、人間の頭で作ったものである道徳や善悪では、宇宙の法則を解き明かすことはできません。

確かに、仏陀も、善や悪という言葉を使います。

しかし同時に『戒律や道徳にこだわってはならない』(スッタニパータ)とも言います。

どういうことでしょうか。

仏陀の言う善悪は、人間が作った道徳ではなく、もっと根源的な意味です。

つまり、無量に沿った生き方を善と言っており、無量に反するものを悪と言っているのです。

 

いますぐ、無量に向かわなくては、われわれは知らず知らず欠乏感の集積に向かって激流に押し流されているのです。

欠乏感を持ったままで『そのままでいい』『ありのままでいい』と言っていると、その欠乏感の波動に合った、やはり欠乏感を抱えている人物が環境に現れます。そしてその人の気に入られようとして自分の意志を捨ててしまうとその人によってより悲惨な欠乏の状態へと引き摺られていくのです。

これが、周りも褒めるとても人のいい女性が、ろくでもない男と知り合い悲惨な人生になっていくありようです。被害に遭う人は、きっぱりと断れない善人がほとんどです。

 

そしてこれが、表面的な善因善果や悪因悪果の法則がまるで現実に当てはまらない理由です。

どんなに周りから善人と思われている人でも、自らの無量性に合わせなければ、その欠乏感がいつ環境に現れてもおかしくないのです。

 

それでも、純粋無垢な赤ちゃんが殺されたりする出来事はあまりにも理不尽と思ってしまいます。

自らの想い、欠乏感が不調和な環境を作るとしても、生まれたばかりの赤ちゃんはそもそも明確な想いを出していないはずです。

 

さて、ベトナム戦争の時代に、アメリカで、ある講演者がこう言ったといいます。

『ベトナムの赤ちゃんは自らに降り注ぐナパーム弾を自らが作った』

これで、講演会場は蜂の巣を突いたような大騒ぎになりました。

その講演者を非難する怒声が沸き上がったと言います。確かにあまりにも非常識な言葉です。衝撃的な、そして酷すぎる言葉です。

しかし、その講演者は怒号渦巻く中、平然と講演を続けました。

驚くことにだんだん会場は静かになり、最後には、その講演者に称賛の拍手と歓声で終わったと言います。

その内容はその本には詳しくは書かれていなかったので、私にも何のことかさっぱりわかりませんでした。

しかし、その言葉を一生の公案としていつも考えていたような気がします。

 

ここでその本質を書きますと

肉体ができてはじめて思いが生まれたのではなく

思いが肉体を作った、ということです。

仏教では、唯心所現、唯識所変といいます。

思いが、肉体も環境も作る、ということです。

強い欠乏感からの思いは不調和な環境をもたらします。

それは善とか悪とかではなく、人間はみな無量から離れた『長者窮子』なのであり哀しい存在です。

善悪という単純な概念で人を裁いたり責めたりする考えは間違っています。

善人悪人関係なく私たちはすべて、無量感から離れ、分離感、限定感、欠乏感の渦の中にいるために、刻々と不調和極まる環境を作り出していっているのです。

むしろ、他人の目が気になって仕方がない善人ほど、他人に気に入られようとして主体性を失い、自信を失い、自己重要感を毀損し続けているのです。強い欠如感に苛まされているのです。環境に不調和が生まれやすいのです。

 

人間は肉体ができて初めて意識を持ち、思いを持ったのではなく

意識が、思いが、肉体を作ったのです。

個であろうとする意識、思いが、

人であろうとする意識、思いが、

五蘊を仮合させ肉体を作ったのです。

 

通俗的な仏教でよく言う『自業自得』『因果応報』『善因善果』『悪因悪果』という言葉は極めて不完全で、人類を分離に導くものです

それは現在苦しんでいる人を、『前世の悪業のせいだ』と断罪するものにしか過ぎず、無量心からかけ離れた分離感へと導くものです。

私たちはみな無知な子供であり、知らず知らずのうちに無量から離れ、放浪しているうちに自分が長者の子(無量)であることをすっかり忘れているだけです。

それは、哀れな存在であったとしても、苦しんでいるからと責められるようなことではありません。

 

誰もが知らず知らずのうちに、無量から離れてしまい、強い欠乏感をもって肉体や環境を作っていっています。多かれ少なかれ、無量ではない、不完全な現象を作り上げているのです。

戦争の真っただ中に生まれるという環境を作り上げることもあるでしょう。

 

すべての人間は、無量から離れ、欠乏感の増大へと向かっています。知らず知らずのうちに環境に飲み込まれていくのです。分離感を抱えていると、同じく分離感を抱えている人と出会います。そして、その出会いのために分離感や欠乏感は増幅していくのです。

ですから、私たちは、いつどのようなことが起きてもおかしくないと言えます。日常生活で理不尽な思いをすることも数多いでしょう。その経験はますます分離感を増大させます。

すべての人間は主体を確立してなく、環境に引き摺りまわされているのです殺人事件の被害者は、前世で殺人を犯した悪業の結果として今世で殺されたわけではありません。そのような極めて幼稚な悪因悪果の法則などmoha(迷妄=痴)に属する考え方です。ずっと善人だったとしても、むしろ善人なら善人ほど自分のいい気分を犠牲にし続けてしまいますから、無量から離れてうつ状態になっていることも非常に多いのです。凶悪犯罪の被害者はほとんどみんな善人です。

私たちはみな、無量から離れ欠乏感分離感を抱えている存在で、いつ凶悪事件に巻き込まれたり大災害に遭ったりしてもおかしくないのです。三界火宅なのです。

自分の想念の無量からの離れようを見ると私にいつナパーム弾が落ちてきてもおかしくないですし、落ちたからと言って理不尽だとは全く思いません。すべて自分の無量から離れた想い、気分が自らにナパーム弾が落ちてくる状況を作り上げたのです。

それが、生まれたばかりの赤ちゃんであっても、肉体に先立つ思いが、肉体と環境を作り出しますから、無量から離れた想いが、そのような状況を作り出すことがあります。

人はすべて、自らの想いによって、肉体を持ち、人となり、自らの想いで刻々、環境を作り上げているのです。

 

 

 

 

 

 

 

映画『ショーシャンクの空に』の奥の奥にある究極のメッセージ

このブログを見ている人は、なぞなぞ認証が分かった人ですから、映画『ショーシャンクの空に』の究極のメッセージの理解に近い人と言えるでしょう。

 

アンディと真逆、正反対、対照的な人物・・・・それは誰か。

 

アンディの明らかな敵は、ボグズですね。アンディをいつも暴力で意のままにしようと思っていた男です。

確かに、知的で教養も誠意もあるアンディと、粗暴で暴力で欲望を果たそうとするボグズは正反対です。

真っ先に挙げるとしたらボグズでしょうね。

 

しかし、正解は、あなたがなぞなぞ認証で答えたブルックスです。

ブルックスは、ショーシャンク刑務所に50年間いた老人です。

とても人が良く、アンディに最初に声をかけたのもブルックスです。

後にはアンディといっしょに図書館係をします。アンディのことを尊敬しており、図書館で刑務官の相談に銀行員ばりにアドバイスしていた様子なんかをみんなに嬉しそうに話します。

ショーシャンク刑務所の中では誰も知らない人はいない古株です。しかし、『刑務所慣れ』してしまい、外の世界では、生きる希望を失って自殺します。

ブルックスは人のいい善人です。私も大好きな老人です。しかし、希望を失ってしまいます。環境に負けてしまいました。想念は環境より上位にあるのに、環境を無視して主体的に想念を出すことができなかった。

 

その後、刑務所内の食堂で、アンディが仲間たちに希望について語ります。

それを聞いていたレッドが、『希望は危険な代物だぞ。希望は人を狂わすことがある。刑務所の中では希望は何の役にも立たない。そういう考えに慣れたほうがいい。』と忠告します。

それに対しアンディは『ブルックスみたいに?』(Ⅼike Brooks did?と言います。

 

この映画によく出るキーワードは

Get busy living or get busy dying .

です。

字幕では『必死に生きるか、必死に死ぬか。』となっていますが

私が訳すなら生に向かうか、死に向かうか。』です。

 

アンディはどんなどん底の環境に居ても希望を持って生に向かった。

ブルックスは人のいい善人ですが、外の環境に慣れず希望を捨ててしまい死に向かった。

 

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 映画『ショーシャンクの空に』を初めて観たときに私は、『運命の貴族となるために』という本と同じ匂いがすると思いました。

『運命の貴族となるために』は、1929年の世界大恐慌で自殺者が続出していたときに現れた本です。作者は不明です。破産寸前のどん底、自殺しか考えられないような状況から運命の貴族となっていった人の教えです。

 

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映画『ショーシャンクの空に』の原作は、スティーブン・キングです。

スティーブン・キングの作品に共通するものは超常現象です。

しかし、この『ショーシャンクの空に』だけは超常現象が出ません。

しかし、スティーブン・キングがこの『ショーシャンクの空に』で描こうとしたのは、極めて高度な次元での超常現象だと思っています。

つまり、人間の想念の力(映画では「希望」)で、どん底の環境を一変させる、という最も根源的な超常現象です

 

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それでは、実際に映画のセリフを見てみましょう。今まで読んだ、どの訳も全く気に入らなかったので、自分で訳してみました。この作品に限らず、深い作品は、原語に直接あたって自分で直訳してみると本当の深い意味が見えてきます。映画字幕は意訳し過ぎていて深いところまで行き着けない感じです。

 

 

 

He had a quiet way about him, a walk and a talk that just wasn't normal around here. 

He strolled , like a man in a park without a care or worry in the world .

Ⅼike he had on an invisible coat that would shield him from this place.

 

彼には静かな雰囲気があった。歩き方も話し方も、この辺の普通のやつとは違ったのだ。

この世の苦労も心配事もない男が公園にいるかのように散歩していた。

まるで、この場所から自分を隔てる、見えないコートをまとっているように。

 

 

 

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We sat and drank with the sun on our shoulders,

and felt like free man.

We could'a been tarring the roof of one of our own houses.

We were the Ⅼords of all Creation.

 

俺たちは座って、肩に日を受けて飲んだ。

自由な人間であるように感じた。

自分の家の屋根を塗っているかのようだった。

俺たちは、創造主だった。

 

 

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Forget that there are places in the world that aren't made out of stone.

That there's something inside that they can't get to,that they can't touch.

That's yours.

Hope.

 

石で作られたのではない世界の中にその場所がある、ということを忘れているんだ。

連中にも手が届かない、触れることもできない何かがあるんだ。

それこそが君自身のものだ。

それは『希望』さ。

 

 

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Hope is a good thing,maybe the best of things,

and no good thing ever dies.

 

希望は良いもの、たぶん最上のものだ。

そして良いものは決して滅びることはない。

 

 

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そしていよいよ・・・

 

Ihope Ican make it across the border.

Ihope  to see my friend and shake his hand.

Ihope the Pacific is as blue as it has been in my dreams.

Ihope.

 

最後の『語り』です。

原作の最後もこの語りです。

ここはどうしても英語のまま理解しなくてはいけない箇所です。

日本語では

国境を越えられるといいが。

親友に会って握手できるといいが。

太平洋が夢で見たように青いといいが。

俺の希望だ。

としか訳せません。

 

Ihope の本質的な意味、根源的な意味が台無しになってしまいます。

日本語訳では、という主体がすっかり抜けてしまっています。

hope という能動的な動詞もなくなっています。名詞になってしまっています。

 

映画『ショーシャンクの空に』の奥の奥にある究極のメッセージは

I hope です。

この作品に秘められた I hope  の根源的な意味を理解できればアンディのように、どん底の環境を一変させることができるでしょう。

 

とは free manであるところの  です。

とは We were the Ⅼords of all Creationであるところの  です。

とは I am  that Iam    の  です。

 

真の主体、無量心、無量の精神そのもの、創造の主体です。ありてあるものです。

 

hope とは、確信に満ちた想いです。確信に満ちた想いで現象を創造することです。環境を創造する働きです。『光あれ』と発することです。

本源である  が  hope  したとき、創造が起きるのです。

 

レッドが確信をもって I hope  と 発したとき

光り輝く大海と親友という環境が現れました。

 

これが映画『ショーシャンクの空に』の究極のメッセージです

 

 

 

 

 

 

 

  

仏陀の真意、無量心から見た法華経の真義

私は歴史上の仏陀の真意を探求してきました。最古層の仏典からわかった仏陀の真意は素晴らしいものでした。もちろん、一時的で、まだずっとその無量にあることはできてないですが、垣間見た無量から法華経を訳してみました。

大乗仏典は、仏陀の教えによって目覚めた人たちが次々と創作したものです。そのため、筏はないのですが、芸術作品としては素晴らしいものです。

なぜ、大乗仏教が生まれたのかもはっきりとわかるようになってきました。それについても、この『今まで絶対に書けなかったこと』で書いていきます。法華経全二十八品の全訳もいつかはしたいと思っています。

歴史上の仏陀の真意から大乗仏典を見ることができれば、小乗大乗という争いがなくなり、仏教の全肯定に進むことができるかもしれません。

今回、法華経の真髄の中の真髄、法華経如来寿量品自我偈について、仏陀の真意、無量からの訳をしてみます。

 

 

 

 

法華経如来寿量品自我偈】仏陀の真意、無量からの訳

 

私は、実に無量百千万の昔から無限の大海であるのだ。

ある時には仏陀として現れ、ある時にはキリストとして現れ、また様々な覚者として現れ、無量劫において常に法を説いて無数の衆生を無量の境地に入らしめてきた。

衆生を救うために、方便をもって、波として現れ 波として滅を現じる。

しかし、本当は滅度などしておらず、常に無限の大海として此処に住して法を説いている。

私は常に此処に住しているが、顛倒の衆生は、その顛倒妄想によって近くても見えないのだ。

衆生は、私が死んだのを見て広く舎利を供養し、皆強く恋慕し、渇仰の心を生ずる。

衆生が強く信じ、正直で柔らかい心となり一心に仏を見たてまつらんと欲して自らの身命を惜しまないならば、その時、私と私の弟子は共に霊鷲山に現れる。

その時、私は、衆生に語る。

私は実に無限の大海であり、常に此処にあって滅したことなどなく、方便力をもって波としての生死を見せたのだ。

他の国に恭敬し信じる衆生があれば、私はそこに現れ無上の法を説く。

汝等はこれを聞かず、ただ私が滅度したと思っている。

私が見るに、もろもろの衆生はみな、苦海に没している。

故に、仏陀の個体を滅して姿を消し、衆生に渇仰の心を生じさせる。

衆生に恋慕の心が生じれば乃ち出でて為めに法を説く。

神通力はこのようである。

永遠の昔から、私は常に霊鷲山やその他のあらゆるところに遍満し、山となり、川となり、海となり、星となり、宇宙となって輝いている。

衆生が生滅するこの世を見て世の終わりと嘆くときも、我なる大海に浮かぶ波は穏やかで光り輝いており、天人は充満し、園林や諸堂閣は種々の宝で荘厳され、宝樹には花が咲き誇り果実がたわわに実っていて、衆生が遊楽している。諸天は天鼓を撃って常に妙なる音楽を鳴らし曼陀羅華を仏や衆生に降らしている。

我が大海に浮かぶ波はこのようであるのに、諸々の衆生は悪業の因縁のせいで阿僧祇劫を過ぎても三宝の名前さえ聞くことができず憂怖や苦悩という大火に焼かれている。

しかし、心が柔和でまっすぐになれば、その瞬間、私が無限の大海でありここにあって法を説いているのをたちまち見るであろう。

 

仏の慧光は無数劫に無量を照らしている。

汝ら智がある者よ、ここにおいて疑いを生ずることなかれ。まさに断じて永遠に疑いをなくしてしまえ。仏の言葉は真実なのだ。

医師が自分の狂った子を治すために、死んでいないのに死んだと言って方便を使って救ったように、私もこの世の父でありすべての苦悩を救う者なのだ。

凡夫は顛倒しているがゆえに、無限の大海が今ここにあるのに見えないのだ。凡夫は、ずっと仏陀という個体が存続すると考えるとそれに頼り、おごりの気持ちを生じ、怠けて五欲に執着し、悪道に堕ちるだろう。

私は、常に衆生がどのくらい心境が進んでいるかを知って、それに応じて種々の法を説く。

私は、無限の大海として、常にこう念じている。

すべての衆生が無量の境地に達し、無限の大海になりますように。

 

 

 

 

 

 

 

私の環境が一変したこと

私は店舗を持つ会社の経営者です。

父親の会社を継ぐことになったのですが

新業態を次々に生み出してそれが地域のマスコミにも取り上げられるなど

注目を浴びていきました。

自分の能力も過信しはじめ、若気の至りもあって勢いに乗って大きく事業を拡大化させていきました。

しかし、調子に乗りすぎて、一気に拡大させすぎ、地域も広範囲になって管理が行き届かず、経営不振になっていきました。

多角化の弊害で、会社の借入金も2億円になってしまいました。

このままでは倒産必至というときに、よく読んでいた引き寄せの法則でその窮状を打ち破る決心をしました。

具体的には、元手5000万円で株式投資をして、2億円の借金をすべて返済する目標を立てました。

2億円稼ぐためには、税金なども考えると、5000万円を5倍にする必要がありました。

 

失敗すれば、会社は倒産し、自らも破産となり無一文になりますから必死でした。

 

(続きます)